ぎむの日記

ほぼ日記です

虫食い読みした本について堂々と語ってもよいものか

注)2021/3に書きました

 

半年ぶりにここに戻ってきたのは絶対に黒歴史と化しているであろう私の文章を抹消するためであったが、昔の自分が思っていたことを見返すのが案外面白かったので残しておくことにした。日記を書いたりそれを見返した経験がほとんどないのでかなり新鮮な気持ちだ。夏休みの宿題で毎年日記を書かされたのもこういう気持ちを味わってほしいというねらいがあったのかもしれぬ。しかしその夏の思い出たちは返却されるなりゴミ箱へ直行されました。ごめんね先生。

最近ちょっと大きい試験を受けた。コツコツやることができない私は直前になって必死に頭に詰め込み詰め込みなんとか受験してきたわけだが、その試験の前日から夜眠れなくなり、寝付いても夢の中で問題を解き、頭にその問題を詰め込みながらうなされるようになってしまった。これは、小学生の頃「おいでよどうぶつの森」を毎日朝から晩までずーっとやり続けていたら夢の中でどうぶつの森の住人になって近隣トラブルを起こしてしまい、かわいいリスちゃんにリセットさんばりのお説教をされ泣きながら夜中に目を覚ましたとき以来である。

なにか違うことをして頭からこの忌まわしい勉強の記憶を追い出さねばと向かった先の本屋さんで「読んでいない本について堂々と語る方法」が目に入った。

 

www.chikumashobo.co.jp

 

私は昔から、本を最初から最後まで読めないたちである。真ん中からじわじわと、虫が食うように「読んだことがあるページ」を増やしていくのである。この読み方をしていると、何十回も読んでいる本ですら10年後くらいに初めて読む文章が出てきたりする。かといって、最初から順番に読もうとするとすぐ気が散ってしまって先に進むことが出来ない。したがって、面白いと思った本があっても自分がその本を「読んだ」と言っていいものか悩んでいた。

しかしこの本は、そもそも「読んだ」という状態とはなにか?というところから話が始まる。これが衝撃だった。私は1文字も漏らさず読んだことがある状態を「読んだ」と定義してきたが、この本によると「読んだ」状態も「読んでいない」状態も様々であって両者を区別するのは難しいという。ということは虫食い読みも「読んだ」に入れてもいいのではないか、ちょっとかじりついた程度で感想を堂々と述べてもひょっとして許されてしまうのではないかと、私は大いに背中を押された。

文字は情報を伝達するために生まれた道具だから、私たちは書いてあることを100%確実に読んで理解せねばならないという強迫観念に囚われがちである。でも、少なくとも趣味で読む本はそういう読み方ではなくて、例えば他のところは全部忘れたけど1つの文章が強烈に心にこびりついている、そんな読み方でもいいのかもしれない。

 

 

「読んでいない本について堂々と語る方法」を読んだ方は、ひょっとしたらお気づきかもしれない。そう。

私はまだ前書きしか読んでいないのである。